2009年3月7日土曜日

ピカソ

 ピカソが好きである。
 先日六本木で開かれたピカソ展に用事ついでに立ち寄った。この用事ついでがボクに強いインスパイア体験与えてくれた。とても良かった。これが率直な感想である。正直自分がピカソの絵に感銘を受けるとは思わなかった。
とは言うものの、ピカソ展でも最初の方は何も感じなかった。いわゆる青の時代のゾーンでは感心しながらじっと作品に見入る人に疑問さえ感じた。 でもピカソ中期というか、怪物のような生き物が描かれている絵が現れてくる時代のゾーンから心が揺さぶられてきた。ピカソという人物が見えてきたのだ。
個人的な意見であるが、何事も人物像が見えてくる瞬間が楽しい。音楽も本もスポーツも一部の政治家も「人間」「キャラクター」が見えるか否かがボクにとっては重要なのだ。太宰なんかは作品を読んでいくと、自分はくだらない人間だ、でもそれを客観視するオレはすごい、という太宰の気持ちを察し、彼の本性を感じることができる。太宰の場合はすごく顕著ではあるのだが。
 ピカソは実際どんなキャラクターだったかは知る由もない。でも言ってしまえばこれが「オレ流」芸術の楽しみ方なのだ。
 
 ピカソ展の最後はピカソの晩年の作品だった。そこでもいわゆる「子供が書くような絵」がほとんどである。でも、ピカソの初期の作品からしっかり見てきたボクにはわかる。確実にこの時期には心が充実している。同じような絵の中にも温かみを感じる。こんなステレオタイプな感想をまさかあまのじゃくのボクが持つとは思っても見なかった。
 最後の一枚。自画像である。そこに老いぼれの顔は無かった。とても穏やかな表情だった。こんなに穏やかな絵は初めてだ。ピカソは人生を駆け抜けた。でもこの晩年期にはとても穏やかな優しい時間を過ごしたに違いない。
 一人の人物に絞った美術展に行ったのは久々だった。ボクの美術の楽しみ方は「人物」を感じるわけだから今まで訪れた美術展で相当楽しめた方だ。一人の人間の歴史が見えてくるぐらいの量を見るべきだ。少なくともボクはね。そういった意味では、どれだけ有名な作品でもひとつだけ見ただけでは何の感動も無い。ボクは色んな時期に渡る作品を何枚も見たい。「人物」が見えてくるまで。
 
 「芸術は難しい」「分かんない」という人がいる。描写技法や何とか派という専門的な見方をする人もいる。もっと自分が好きなように見ればいいのにとも思う。ゲームが好きな人もスポーツが好きな人もテレビが好きな人も、自分がどんな時に快感かというのを分かっていればあとは同じように絵や彫刻を見ればいいのだ。

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