2009年5月5日火曜日

劇場型人生

 至極個人的な話をする。しかしきっと同じ事を感じている人、潜在的に認識している人は必ずいるはずだ。
 人は、いやここではボクは、と言っておく。ボクは人生という劇場の演者だ。セリフを与えられ演技している自分と役そのものの自分が同時に存在している。あまり好きな表現ではないが、偽りの自分と本当の自分とも言える。この二つの自分が同時に存在するから苦労する。ひとりは人当たりがよく元気で理性的な自分。もう一人は陰険でエゴイストな冷めた自分。前者が役で後者が素である。ただ自分の本性は全て素の部分ですとは断言できない。与えられた役も自分なのだ。自分の意思で動いていることに変わりない。でも取り繕っているせいか、演技中疲れてしまうこともある。でも役の自分は純粋に楽しい。いやな自分との争いに負けて、急に冷めだしても、そんな自分が好きでもある。別に冷めた自分を変えようとは思わない。変えたと思ってもきっとそれは無理をしているだけだから。
 もう一人の自分の存在に気付いたのはいつのことだろう。もちろん自分の生を認識できたときから存在し続けているのだろう。ただ、もう一人の自分をはっきり意識し、その存在に思い悩んだのは大学2年の秋であるのは明確に覚えている。壊滅的な人間関係に悩みんでいた。あの人のためにはどうしたらいいんだろうと考え続けて、結局自分はどうしたいんだろうという疑問にぶち当たった。ここをはっきりしないと人様のこと世話ごとなんてできるわけ無い。人を大事にするのならまず自分を大事にしろっていうのはこういうことなのかもしれない。そんなことばかり考えていたから、もう一人の自分を意識せざるを得なかった。その時は徹底的に深いところまで自分を見つめなおした。どうしてあの時こう感じたのか。どうしてあの時ああいった行動に走ったのか。本当は自分は何を大事に生きているのか。見えてきた自分は汚いものだった。だが不思議と辛くなかった。自分の脳内が整理され、多元的に自分の思考をグループ分けできたことに満足感さえ感じた。自分はしょーも無い人間である。だけど、そんな自分を恨んでもどうしようもない。そんな自分も好きになろう。自惚れかも知れないがニーチェの言う自己愛に近い境地かもしれない。
 そんな自分を否定する気はないが、自分が嫌になることはある。例えば恋しているときに顕著である。誰かを好きになって、胸高まっても、もう一人のが喚起する。それは恋じゃない、恋している自分に恋しているんだ、と。悔しいが確かにそうである。今までの恋といったら、彼女がいる状態にあこがれていただけであったり、恋愛状態が楽しいだけであったりしただけだ。その時だけは皆がボクの話をちゃんと聞いてくれる。その本心は実際恋愛中でも分かっている。でも表面の自分が臭い物に蓋をするのだ。オレはあの娘が好きなんだと言い聞かすのだ。恋だ、いや自己愛だ。こんなやり取りを自分の中で繰り返すうちに、自分が嫌になってしまう。そんな状態だから、恋に攻めの姿勢になれなくて、結局保身の気持ちで恋愛してしまう。本当に大事な人は相手だといえないのだから。むしろ大事なのは自分なのだから、傷つかないように動いてしまうのだ。本当に恋すると劇場のステージから降りて新たな境地に立つのではないか。そんな淡い期待がある。しかし、そんな境地分からないし、存在するのかも疑わしい。実際好きになればなるほど、葛藤は激しくなるだろう。それだけ相手のことを思っているわけだから。
 自分が嫌になってどうするかというと、2つの自分の葛藤を見てまた新たな3つ目自分が冷静に見つめるのだ。さらに悩んでまた4つ目の自分が冷静に見つめる。そしてそれはスパイラルしていく。一つ一つは違うことを言う。

くだらない。お前はそうやって悩んでいる自分が好きなだけだ。

そうやって冷静に見つめてる自分を見つめてる自分にお前は自惚れているのだ。

そのことをブログに書いて自分を格好良く見せたいだけだ。


そうやって自分のやることなすこと全てに客観視する自分が現れる。本当の自分など無い。全て自分だ。全ての自分を愛していこう。そして、ひとりひとり大事にしよう。

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